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History30年の軌跡

1992

1992年4月24日、広島県・広島市・マツダ・ダイイチ(現エディオン)など47団体の出資により、広島市をホームタウンとしたプロサッカーチーム「サンフレッチェ広島」が誕生。天皇杯で3度の優勝を飾ったマツダを母体としたチームは、スチュワート・バクスター氏を初代監督に迎え、翌年のJリーグ開幕に向けてスタートを切った。

1993

記念すべき開幕戦は5月16日。市原を広島スタジアムで迎え撃ち、開始1分で片野坂知宏が上げたクロスをキャプテン・風間八宏がボレーで沈め、Jリーグ日本人初ゴールを記録した。開幕戦で初勝利を飾ったチームは、バクスター監督の「ディシプリン(規律)」を重んじるサッカーを成熟させ、翌年のタイトル獲得に向けた下地を築いた。

1994

高木琢也、森保一、柳本啓成、森山佳郎ら、日本代表に名を連ねたメンバーに加え、ハシェック、チェルニー、盧廷潤といった外国籍選手も力を発揮し、サントリーシリーズで初優勝。V川崎とのチャンピオンシップに敗れ、年間優勝こそ逃すものの、公式戦で42,505人の入場者数を記録するなど、Jリーグ草創期のブームに乗った輝かしいシーズンとなった。

1995

チームはさらなる飛躍を目指し、新監督にビム・ヤンセン氏を招聘。組織力重視から個の力を活かすサッカーに転換を図った「トータル・フットボール」を目指した。しかし、大胆な戦術変更に戸惑いもあり、成績は低迷。前年にピークを迎えた観客動員にも、陰りが見え始める。一方でユースチームは、Jユースカップで優勝。初のタイトルを獲得した。

1996

経営難から1994年にサントリーシリーズを制覇したメンバーが続々と移籍。選手の放出で観客動員の減少も一気に加速した。一方で主力選手の退団と比例するかのように、若手選手が続々と台頭。上村健一や路木龍次、下田崇はU-23日本代表としてアトランタ五輪に出場し、ブラジルに勝利した「マイアミの軌跡」の一員となった。

1997

若手選手の成長とクラブの経営難もあり、チームは『日本一の育成型クラブ』を目指す方針へと舵を切っていく。この年から、オーストラリア代表監督を務めたエディ・トムソン氏が監督に就任。アーノルド、ポポヴィッチを獲得して主軸に据えると、服部公太ら若手を積極的に起用し、守備的なサッカーを構築。チームの立て直しを図った。

1998

高木琢也、森保一ら、クラブの一時代を築いた主力選手の流出は止まらない。苦しいクラブ経営には拍車がかかるなか、チームは奮闘した。1stステージこそ13位に終わったものの、2ndステージでは1994年以来となる1桁順位を記録。伸び盛りの若手が主力へと成長し、ベテランとの融合で堅守速攻のスタイルに磨きをかけていった。

1999

トムソン監督の指向するサッカーが熟成。ポポヴィッチ、上村健一、フォックスで形成するリーグ屈指の3バックが圧巻の守備を見せると、攻撃ではエースの風格を見せ始めた久保竜彦が2年連続で2桁得点を記録。この年から加入した沢田謙太郎、藤本主税、高橋泰らも活躍し、天皇杯では決勝に進出するなど、躍進の1年となった。

2000

ユースから森﨑和幸、森﨑浩司、駒野友一がトップチームに昇格。彼らを含めたルーキー7選手は期待をもって“スーパーセブン”と称された。なかでも前年に高校生で公式戦デビューを果たした森﨑和幸は、24試合に出場するなど活躍。クラブ初の新人賞を獲得した。一方でさらなる飛躍を期したチームは、得点力不足が響き中位でシーズンを終えた。

2001

トムソン体制が終わりを告げ、チームは攻撃的なサッカーへと大胆な方針転換を図る。ヴァレリー・ニポムニシ氏を新監督として招聘すると、久保竜彦、大木勉、コリカ、藤本主税らで織りなす攻撃が、抜群の破壊力を生み出す。リーグ3位の得点力を見せながらも、失点ではリーグワースト2位を記録。派手な試合展開でファンを魅了した。

2002

上昇機運に乗ったと思われたチームには、開幕前から暗雲が立ち込めた。ヴァレリー氏の辞任を受けて就任したガジエフ監督は、戦術を浸透させることができず、わずか8試合で退任。その後、木村孝洋コーチが監督に昇格するも、一度、混迷したチームを立て直すには至らず。最終戦、アウェイ・札幌の地で力尽き、クラブ初のJ2降格が決まった。

2003

1年でのJ1復帰を絶対命題とし、前年9月からヘッドコーチとしてチームに加わった小野剛氏が監督に就任。J2降格を受けて大幅にメンバーが入れ替わるなか、ブラジル代表として活躍したサンパイオが加入。チームの精神的主柱となり牽引すると、下田崇、服部公太、森﨑兄弟らが中心となり、苦しみながらも最終節を前に地元でJ1復帰を決めた。

2004

開幕直後から4分3敗と苦しい戦いが続くなか、J1復帰後初勝利をもたらしたのは、森﨑兄弟だった。5月5日のC大阪戦で、最初で最後となる双子アベックゴールを達成。以降も中心となってチームを牽引した。堅守をベースに戦ったチームは、30試合中13試合で引き分けるなど勝ちきれない試合が多く、上位進出とはならなかった。

2005

長年、得点力不足に悩まされてきたチームに、待望のストライカーが加わった。大きな期待をもって迎えられた佐藤寿人は、第9節新潟戦で移籍後初得点を決めると、堰を切ったようにその後もゴールを量産。2度のハットトリックを含む18得点を記録するなどエースとして大車輪の活躍を見せ、チームを7位へ押し上げる原動力となった。

2006

さらなる高みを目指して、中盤をフラットにする新戦術を起用。しかし、これが機能せず、8戦未勝利で小野監督の辞任が決定する。その後、望月一頼GKコーチが暫定的に指揮を執ると、中断明けにミハイロ・ペトロヴィッチ氏が監督に就任。青山敏弘ら若手を抜擢し、後方からつなぐ攻撃的なサッカーへと、チームは大きな変貌を遂げた。

2007

序盤こそ前年の好調を維持し、上位進出をうかがう好位置につけるものの、第17節から5連敗を喫すると、一気に流れは暗転。攻守にちぐはぐな場面が目立つようになり、終盤は10試合未勝利で16位に沈んだ。京都との入れ替え戦では、必死に食らいつきながらもホームで迎えた第2戦でゴールを割ることができず、屈辱の2度目のJ2降格が決まった。

2008

当時としては異例の降格した監督の続投を決定。目指すサッカーを継続し、主力選手の退団を最小限にとどめたチームは、J2の舞台で躍動した。その後の礎となる3-6-1をベースとした可変システムが構築され、全節首位、勝点100という圧倒的な力で早々にJ1復帰を達成。ペトロヴィッチ監督の下、チームの歴史が大きく変わる節目の年となった。

2009

自信をもってJ1の舞台に戻ってきたチームは、快進撃を見せる。序盤こそ勝ちきれない試合が多かったものの、第18節以降、4連勝を含む9試合不敗を記録。髙萩洋次郎、槙野智章、柏木陽介ら、ユースで黄金時代を築いた若者たちがチームの中心として輝きを放ち、勝点56を積み上げ4位でフィニッシュ。チーム初となるACL出場権をつかんだ。

2010

クラブ史に新たな歴史を刻んだアジアとの戦いで、選手たちは奮闘した。ACLグループステージで3連敗スタートを切りながらも、残り3試合は接戦を制し3連勝。アジアの舞台で堂々たるプレーを披露した。また、ヤマザキナビスコカップでは初の決勝進出。後半終了間際に失点し、惜しくも優勝こそ逃したが、タイトル獲得まであと一歩に迫った。

2011

2010年後半からブレイクした李忠成が、エース・佐藤寿人と並ぶ活躍でゴールを量産。後方から徹底的にボールをつないでゴールに迫る攻撃的なサッカーは、多くのファンを魅了した。一方で、5失点を2度喫するなど、失点数も増加。さらなる上位躍進とはならず、2006年から続くペトロヴィッチ体制が終焉し、チームは新たなステージに入った。

2012

チームのレジェンド・森保一氏が監督に就任。ペトロヴィッチ氏が築いたサッカーを継承しつつ、守備の改善に着手したチームは快進撃を見せる。試合終盤でのゴールも多く、粘り強く団結した戦いが実り、11月24日、エディオンスタジアムで悲願の初優勝を飾る。クラブワールドカップにも初出場し、クラブ史に燦然と輝く1年となった。

2013

第11節以降、5連勝を含む9戦無敗で首位に浮上したものの、その後に3連敗して順位を落とすと、第32節でC大阪に敗れ、残り2節で首位・横浜FMと勝点5差に。連覇は絶望的と思われたが、最後に奇跡が起こる。最終節のアウェイ戦で強豪・鹿島に勝利し、劇的な逆転優勝で連覇を達成。リーグ最少失点、15試合完封を記録した堅守も光った。

2014

連覇を達成しながらも毎年のように主力選手が移籍する一方、林卓人、柴﨑晃誠、柏好文ら、実力ある選手が加入。野津田岳人、浅野拓磨の活躍でゼロックススーパーカップを制するなど若手台頭の萌芽も見えた。また、ヤマザキナビスコカップで準優勝、3度目の挑戦となるACLでは初の決勝トーナメント進出を果たし、チームの地力は発揮した。

2015

3度目の優勝をリーグ史に残る激闘でつかみとった。リーグ最多得点、最少失点と圧倒的な強さで勝点74を積み上げて迎えたチャンピオンシップ第1戦。終盤に逆転を許しながらも、アディショナルタイムで2点をたたき込み、劇的な逆転勝利。第2戦では先発・佐藤寿人、交代・浅野拓磨の必勝法が的中し、満員のエディオンスタジアムが歓喜に沸いた。

2016

前年優勝の立役者の1人、ドウグラスは移籍したものの、この年に得点王に輝いたピーター・ウタカが加入するなど、戦力は充実しているかに思われた。しかし、佐々木翔や水本裕貴といった主力DFの負傷離脱や、浅野拓磨の海外へ移籍など、シーズン当初には予期せぬ事態も発生。チームの戦いは安定さを欠き、年間順位は6位にとどまった。

2017

佐藤寿人の移籍、森﨑浩司の引退とレジェンドたちが去り、新たな段階へと向かったチームに苦境が待っていた。著しい得点力不足に陥り、第17節までで挙げた勝点はわずかに10。3度の優勝に導いた森保一監督が退任した。中断期を挟み、新監督にはチームOBのヤン・ヨンソンが就任。ギリギリのところで持ち直し、15位でJ1残留をつかんだ。

2018

城福浩氏が新監督に就任。前年の屈辱にまみれたチームは反骨心を見せ、開幕からの9試合で8勝1敗を記録するなど、驚異的なペースで勝点を積み上げた。しかし、独走態勢を築き始めたかに思われた第26節から急失速。以降、6連敗を喫するなど1勝も挙げることができず、最終節の引き分けで辛くも2位に。翌年のACL出場権をつかんだ。

2019

開幕戦から川辺駿、大迫敬介ら多くの若手を起用したチームは躍動。5勝2分けとリーグでスタートダッシュを切る一方、ACLでも荒木隼人、森島司らが台頭し、グループステージを5勝1敗と過去最高の成績で突破した。負けなしと連敗を繰り返すなど、戦いは安定しなかったものの、出場機会を得た若者たちの活躍は際立った。

2020

スタンドが紫で染まった開幕戦、鹿島に3-0で勝利し、素晴らしい1年の到来を予感させたが、直後に新型コロナウイルスの感染拡大によりリーグ戦が中断。チーム活動も完全に停止した。7月の再開後もリモートマッチ(無観客試合)が続き、スタジアムから歓声は消えたまま。終盤まで連戦が続いた異例のシーズンは、波に乗れないまま8位で終えた。

2021

連続してコロナ禍に見舞われた1年。飛躍を期してシステムを変更し4バックで臨んだものの、好結果を得られずに3バックへ回帰。しかし、試合終盤での失点で勝点を失う試合も多く、J1残留を決定した第33節で城福浩監督は退任した。また、3月には女子チーム・レジーナが誕生。日本初の女子プロサッカーリーグ(WEリーグ)に参戦している。

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