サッカー王国広島の系譜に新事実

お知らせ

 社長の仙田でございます。

 中国新聞朝刊に、「野球サッカー伝来初期 江田島でプレー」という記事が掲載されました。サッカー王国広島を裏付ける貴重な史料の発見です。この記事に私も関わりました。この発見の意義を、かいつまんでお伝えします。

 東京九段にある昭和館には、敗戦直後の米豪の撮影したフィルムが膨大に保管してあります。私は、そこにサッカーの映像を探しに行きました。

 「昭和20年~24年の呉、川奈、熱海」というタイトル編に、サッカーの映像がありました。そこで、これを取り寄せ、サンフレッチェ広島のホームページ(広島サッカーの歴史ページ)に掲載しました。

 場所を特定するために、広島・呉の近代史の権威 千田(ちだ)武志 広島国際大学客員教授に電話で相談すると、もっと大きな発見があって、明治23年、江田島の海軍兵学校でサッカーをしたという記録を見つけたと言われるのです。

 そこで、中国新聞社の方と江田島市学びの館を訪問しました。

 記録によると海軍兵学校の及第授与式の後の小運動会で、野球とサッカーの試合を披露していました。この年は後年の日露海戦の海軍参謀 秋山真之が卒業した年にあたります。

 野球は正岡子規が普及に尽力したと知られていますが、秋山とは同郷の親友ですから、秋山が子規に教えたのではないかなどと、夢が広がります。

 翻ってサッカーです。

 日本サッカー協会のホームページでは、明治6年、英国海軍が東京築地の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に伝えたと書かれています。
ところが、その後どうなったのか消息が分かりませんでした。

 海軍兵学寮は明治21年、築地から江田島に移転してきます。2年後のサッカー試合は、ここに、サッカーが息づいていた証拠になります。

 進級を祝う式典でサッカーの試合が披露され、ここで配布されたパンフレットには、ルール解説、ラインの退き方なども書いてありました。

 海軍はサッカーの普及にも熱心だったと分かります。

 日本サッカー協会の歴史編は、明治29年、東京高等師範学校にサッカー部ができたことを強調しています。

 その10年後に、広島高等師範学校にサッカー部が誕生し、広島サッカーの発展が始まるのですが、この教育サッカーの系譜とは別に、旧帝国海軍にサッカーが根付いていたというのは、興趣深い史実だと思います。

 日本は英国海軍をお手本としましたから、自然なことだったともいえるでしょう。

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