サンフレッチェ広島が目指す新スタジアムの志

スタジアムパーク

新スタジアムの志表明記者会見

今年3月、当社は広島市議会の承認を受け、新スタジアムの指定管理者に正式に任命されました。国内初の「まちなかスタジアム」として試合日以外でも1年中賑わい、広域に多世代の人々を引き付ける魅力ある施設とします。スタジアムを運営するクラブの志を、改めて表明いたします。

試合開催日には、Jリーグでも評価の高い攻め続ける姿勢と、サンフレッチェ広島の伝統である、ひたむきなチームプレーに一層磨きをかけ、タイトルを狙えるチームであり続けていきます。
WEリーグに中国四国九州で唯一参画したサンフレッチェ広島レジーナが、同じスタジアムで、男女共同参画社会のシンボルとして広島に新しい風を吹かせていきます。
スタジアムへのアクセスが圧倒的に向上します。観客席は全面が屋根で覆われ雨の心配がなく、客席とピッチまでの距離は8mで臨場感に溢れた観戦環境が生まれます。最新の大型映像、音響装置の充実でエンターテインメント性が圧倒的に高まり観客を魅了します。スタジアムショップ、レストラン、カフェなどの賑わい施設も充実させます。

新スタジアムには、広島から世界に向けた、グローバルメディアとしての役割が求められます。
平和公園を設計した世界的建築家 丹下健三氏は、平和公園南側を犠牲になった人々へ祈りを捧げる場所、平和公園北側をスポーツや文化を通じて平和を創造していく場所と考えました。現在北側には総合体育館等がありますが、丹下氏は、ここにサッカー場を構想していました。平和資料館―原爆死没者慰霊碑―原爆ドームを一直線に並べ、「平和の軸線」とし、その北側延長線上には、総合競技場を構想していました。まさに、同じ区画に広島の復興平和の象徴の一つとして新スタジアムが完成します。丹下氏が平和公園構想に託した願いが、新スタジアムのサッカーの躍動、歓声、感動によって、完成形に近付くとも言えるのです。
丹下氏は学生時代を広島で過ごし、被爆後も研究活動で長く滞在しました。原爆の惨禍にあって、サッカーが生きる希望になった多くの若者の姿を見ていました。被爆のわずか2年後の広島高師付属中学の全国優勝は、代表的な奇跡のような歴史です。
施設内にはミュージアムを設置します。ここは、サンフレッチェの今につながるサッカー王国広島のレガシーと誇りを次世代へ継承すると共に、スポーツと平和を体感できる施設にします。平和資料館をはじめ平和記念公園が慰霊、鎮魂と、被爆の実相を学ぶ場であるなら、新スタジアムは、復興を成し遂げた気力の源泉としてスポーツがあり、スポーツとりわけサッカーが若者に生きる勇気を与えたことを、未来に伝えます。
広島を訪問する海外の人々は、広島が復興できた秘密を知りたいと言います。新スタジアムは、そこにスポーツの力があったと伝え、試合日には、スタジアムを埋め尽くしたお客様の声援が選手の奮闘を後押しし、感動を呼ぶプレーを生み、スペクタクルな空間を現出していきます。
「スポーツの力」「夢」「世界平和」を、私たちは、地域の皆様と一緒になって子供たちに、未来に、この場所から発信し続けていきます。サッカーは世界の共通言語です。サッカーの感動とサッカーができる平和の喜びは、広島独自のスポーツの歴史が持つ説得力をもって、世界中から広島にやって来る人々にも共感と共鳴をもたらすことでしょう。

One Ball. One World. スポーツができる平和に感謝

証 言

島根大学学術研究院環境システム科学系 建築論研究室教授で丹下健三の研究を続ける 千代(せんだい)章一郎氏 談。
「丹下さんは平和公園北側を、平和を創造していく場所と考えた。具体的には世界に通用する施設とし、ボール一つあれば世界とつながるサッカーを考えた。平和は守るべきものではなく創造的につくっていくものと丹下さんは考えていた」と語ります。

サッカーと広島の代表的なエピソード

  • 被爆のわずか2年後です。広島高等師範学校附属中学校が、全国中等学校蹴球大会で優勝を飾ります。校舎は倒壊し、グラウンドは芋畑になっていたのを整地し直し、選手の多くは被爆者という中での奇跡の記録です。この大会でエースストライカーだった長沼健氏は、後に日本サッカー協会会長を務めます。1996年、『2002 FIFAワールドカップ』開催国を決めるFIFA理事会に臨み、長沼氏は被爆者健康手帳を取り出して、「被爆者として苦しんだ自分が、サッカーがあったから生きる希望を持てた。日本の復興は世界のおかげであり、ワールドカップが開ける平和の大切さを日本開催で発信したい」と語ろうと決めていました。直前に日韓共催が決まり、幻のプレゼンテーションになりましたが、長沼さんの覚悟がうかがえます。
  • 昭和20年代、広島高師に修道、国泰寺、山陽など強豪校が続き、サッカー王国が形成されます。これを母体に東洋工業が日本リーグ初年から前人未到の4連覇を達成します。この時の監督 下村幸男氏も、修道高校で同級生の三分の二を原爆で亡くした被爆者でした。
  • 1968年メキシコオリンピックで銅メダルを獲得した日本代表中、広島県関係者は三分の一の6人もいて、監督は前述の長沼氏でした。出場した選手にも被爆した方がいました。
  • サンフレッチェ広島の初代総監督 今西和男氏は被爆のケロイドで左足が不自由というハンディがありました。これを克服し日本代表にも選ばれ、森保一監督など多くの名選手を育てました。

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